最後のひとつ

雑記

 

僕は毎朝、出勤前に駅の近くのイオンで水を買う。

 

まとめ買いしておけば時間の節約になるのだけど、なんとなくその日の気分で選びたいというのがあって、その都度買うことにしている。

 

その日はたまたま「いろはすもも」の気分だった。

店に入り、手を消毒。

慣れた足どりで右に左に曲がりながら陳列棚を目指す。

 

 

「いろはすもも」は、最後の1本だった。

 

 

これを見て僕はラッキーと喜んだ

幸先いいぞと心の中で小躍りした。

 

 

でも、なんとなく気が進まなくなって、別な商品にするという人もいるんだろうなという気もした。

 

 

 

僕は仕事でいわゆるブランド品というやつを売っているのだが、そこでよく繰り広げられるやりとりが

 

「新品ありますか」

 

というやつだ。

 

気持ちはわかる。

それなりの金額もするわけだから、できれば誰も触っていないまっさらな商品がいいと思うのは当然だろう。

 

でも店側の都合としては、もともと潤沢な在庫を持っているわけではなく、そもそも1点しか入荷していないものも多い。だから店内の半分以上の商品が1点ものだったりする。

 

店としては店内のものはすべて「新品」なのだが、お客様のいうそれは「誰も触っていないもの」という意味で、そこに食い違いが生じる。

 

 

「新品ありますか」

「こちらが最後の1点です」

 

 

商品を大切に扱わず、無駄にいじくりまわすような人ほど「えっ!」みたいな表情をする。ありえないでしょみたいな顔をして、無理難題を吹っかけてきたりする。

 

商品を大切に扱う人ほど、「そうですか」と言って冷静に商品を確認する。気になる箇所があれば質問し、納得がいけば購入する。納得がいかなければ代替案を求める。

 

 

この差は「自分のもの」と「他人のもの」の分別の有無だと思う。

 

 

分別のある人は、お店のものがまだ自分のものではないということがわかっている。だから丁寧に扱うし、自分以外の人もそうしているだろうと思っている。誰が触っていようと丁寧に扱われているものだから、現品だとしても自分が納得いけばそれでいいのである。

 

だが分別のない人は、お店のものを自分のもののように雑に扱う。あるいは自分のものでないから知ったこっちゃないという気でいるのかもしれない。いずれにせよ、自分で散々手垢をつけた挙句に、それと同じように目の前の商品が他人から雑に扱われていることを想像し、これは自分のものではないと言うのだ。自分が買うのは「新品」だと。

 

ところが「最後の1点」というやつは、選択肢を認めずに「他人のもの」を買いますかと迫ってくる。急に「他人のもの」と「自分のもの」の境界線が露わになるものだから、それまでまったく意識をしていなかった人は面食らってしまうのだろう。

 

そして冷静な判断ができずに、なんとなく気持ち悪くなって手を出せなくなる。

 

そういうことなんじゃないだろうか。

 

 

最後の1本の「いろはすもも」を手に取りながら、そんなことを考えたのだった。

 

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